MENU

中国の秋景色から伝える、ある週末の小さな旅

今日は、中国工場の副工場長王さんが書いた文章です。

目次

れわたる週末、思い立って出かけました

週末の天候は、久しぶりに申し分のない秋晴れとなりました。
この貴重な好天を逃すまいと、家族で思い立って小さな旅に出かけることにいたしました。

目的地はそれほど遠くはなく、車で一時間ほど走れば到着できる場所です。
山は高くはありませんが、どこか切り立っており、まるで大地がこの場所で急に身をすぼめ、青々とした筋肉を盛り上げたかのように感じられました。

空気には湿り気を含んだ苔の香りが混じり、ひんやりとした感触が肺の奥まで行き渡ります。
曲がりくねった石段は、長年の人々の足によって磨かれ、柔らかな光沢を帯びており、石の隙間からは名も知らぬ草が力強く顔をのぞかせていました。

山道の途中で振り返る景色

歩き疲れて立ち止まり、息を整えながら振り返りますと、先ほどまでいた町並みは積み木の玩具のように小さくなり、黄みを帯びた大地の上に点在しておりました。
一方で前方の木立の奥には、ふと黒瓦の飛檐が姿を現します。正午の光を受けて、静かに鈍く輝いており、そこが観音寺であることが分かりました。

半山腰に佇む、静かな観音寺

観音寺は決して大きな寺院ではありません。
半山腰の深い木陰にひっそりと佇み、まるで長い夢の中にあるかのような静けさを湛えております。

山門は素朴で、朱塗りや銅鋲の華やかさはありません。
深褐色の扁額に記された寺名の文字はどっしりとしており、墨が木目に染み込んでいくかのような重みを感じさせました。

門をくぐった瞬間、不思議と周囲が静まり返ります。
無音になるわけではなく、街のざわめきや風の音、さらには自分自身の足音までもが、より大きな「静けさ」に吸い込まれ、溶けていくように感じられました。

桂の香りに包まれる境内

境内の中庭には、年を重ねた桂の木が二株あり、ちょうど花が見頃を迎えておりました。
その香りは風に乗って漂うというより、空気の中に凝り固まっているようで、清冽な空気の中に金色の粒子が浮かんでいるかのようです。

木の下を通りますと、肩や髪にその香りがそっと降り積もります。
この香りは決して華やかに主張するものではなく、ただ静かに、そして深く甘さを湛えておりました。

山頂の小さな展望台から

寺の裏手を進み、さらに歩いて山頂の小さな平台に出ますと、視界が一気に開けました。
杭嘉湖平原が眼下に広がり、田畑の畦道が整然とした幾何学模様を描いております。

さらに遠くには、銭塘江の水面がかすかな光となって、空と雲の境目に溶け込んでいました。
風は次第に強まり、衣服の中いっぱいに吹き込み、音を立ててはためきますが、それがかえって天地の広がりを際立たせ、人の存在が芥子粒ほどに小さく感じられます。

登高の意味を知るひととき

このとき、古人が語った「登高」という言葉の意味が、ようやく腑に落ちた気がいたしました。
何かを見極めるためではなく、むしろ何かを忘れるために、人は高い場所へ登るのかもしれません。

日々の喧騒や心に溜まった細かな思いは、この大きな秋風に吹き払われ、次第に薄れ、遠ざかっていきます。
ただ目の前にある、言葉を持たない広大な山河だけが、静かにそこにありました。

風に乗る人々を見送りながら

さらに風が強まる中、勇気ある人々は滑翔伞を背負い、山頂から一気に空へと飛び立っていきます。
その姿は優雅な弧を描きながら平原へと向かい、やがて小さくなり、秋の景色の中へと溶け込んでいきました。

その光景は、この秋の一枚の絵の中に添えられた、儚くも生き生きとした注脚のように感じられます。
あのような勇気は持ち合わせておりませんが、小鳥の自由に思いを馳せながら、この小さな山頂で、心だけでも一度「飛翔」してみようと思いました。

目次
閉じる